阿嘉島はいまでこそダイバーの間でそこそこ有名になったと感じるがオヤジが  
17年前に来た時、沖縄の人でも島の存在を知っている者はほとんど居なかった。
正確には「日本国 南西諸島 沖縄群島 慶良間列島 阿嘉島」で「慶良間諸島」という
名は出てこない。そんな所は無いのである。潜水関連的一般人及び潜水関連雑誌等は
「ケラマ諸島」と呼ぶが、これは座間味村周辺の島々を示す慣例的な「通称」であるわけで
「ケラマで潜る」ということは座間味村で潜るという意味を持つ。その座間味村の阿嘉島に
来島するにあたって「阿嘉島とはどんな島なのか」をややアカデミックに書き記す。
尚、集中力欠落等の理由もあり中途半端な仕上りとなっていることをお許し願いたい。
            


   「慶良間の島々」                  ケラマの地図→

  座間味村の属する慶良間諸島は、沖縄県・那覇市の西方約30〜40kmに位置する
  大小20余の島々からなる島嶼群である。晴れた日には、沖縄本島の西海岸から
  西方海上にくっきりと、その島影が見てとれる。
  慶良間の島々は、古くは「計羅婆島即百景」(海東諸国記)とか「渓頼末」、「花羅摩」
  などと表記される一方、中国の使者からは、「馬歯山」(冊封使録)とも呼ばれ、
  進貢貿易の中継地点として親しまれてきた。
  年配の方々は、慶良間諸島のうち沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷島の一帯を
  「前慶良間」と呼び、その後方の座間味の島々を「後慶良間」と呼んできた。
  「前慶良間」と「後慶良間」の間には南北に慶良間海峡が走っている。海峡をはさんで
  東側の「前慶良間」の島々が現在の渡嘉敷村を形作り、西側の「後慶良間」の島々が
  座間味村を形成している。
  慶良間諸島の地形は今から150〜200万年前には標高1,500〜2,000mクラスの
  高山の頂きであったものが、長い年月を掛けて沈降してできた可能性が強い(「海に沈んだ
  古琉球」木崎甲子郎著)といわれて、現在では標高200m前後の緑の山々を擁した山地状の
  地形を呈している。

  座間味村は、北緯26度10分〜26度14分40秒、東経127度14分31秒〜127度
  21分の範囲に散りばめられ構成する島々は大小合わせて227といわれ、227のうち
  205は0.01平方m未満の岩瀬である。(昭和56年度「離島関係資料」)
  もっとも大きい座間味島が約5.94平方km、阿嘉島が約3.06平方km、慶留間島が
  約1.22平方km。村の総面積は16.87平方kmである。

    「唐船貿易の中継地点」
  那覇から出航した進貢船(しんこうせん)の多くは一先ず阿護之浦に入港し潮どきや風を
  待ちつつ中国への航海に備えた。逆に中国から首里王府に派遣された冊封船(さっぷうせん)
  なども慶良間近海を通過、しばしば阿護之浦に寄港した。
  近世期の唐船には、地理的利点も含め「海事」に長けているという評価を受け慶良間出身の
  船乗りが多く従事していた。
  
    「流人の島」
  「中山伝信録」によると、慶良間には罪人が多く流されていると記してある。
  琉球政府が軽い罪の罪人を首里に近い慶良間に流したらしいが、薩摩藩(江戸)からも
  キリシタンを島流しにし、厳しく管理しなさいという命令を受けている。その場合、
  一人一島で大体42〜48年の刑期であったようで「南島風土記」によると江戸から
  23人のキリシタンを送られ粟島(粟国)、戸無島(渡名喜島)、渡嘉敷、赤島(阿嘉)
  などに配流している。
  琉球政府からの犯罪者流刑では姦通した二人を男が渡名喜、女は慶良間に
  それぞれ3年ずつ流刑に処されている。(「沖縄の犯科長」)
  重刑の者は遠流で八重山に10年以上流されるが船便の都合がつくまで慶良間や
  久米島に一旦送りその後船を迂回させて八重山に向かった。
  八重山上布というのは阿嘉島で流刑されいた人が八重山に伝えたらしい。

    「鰹漁業」
  1901年(明治34年)に沖縄で初めて鰹漁業が創業され、その先駆者的役割を担ったのが
  座間味村であった。当初は鹿児島、宮崎の漁民の指導を受けつつ実績を高め、明治後期から
  大正期にかけてつぎつぎと鰹組合が組織されるようになり村のほとんどの男が従事、女達は
  鰹節製造作業に携わった。その隆盛には目を見張るものがあり村一円を包んだ好景気による
  報酬を「鰹儲け」(カチューモーキ)と称しその恩恵に浴した。
  昭和期に入り鰹景気が急速に衰えを見せる中、村内の多くの鰹漁船は新天地を南洋諸島に
  求め「南洋儲け」と称して収益を村内に還元した。
  戦後は人員不足等の事情で1976年をもって中断されるに至ったが市場では今も尚
  「慶良間節」は良品の代名詞といて用いられている。
  
    「銅鉱」
  1914年頃〜1920年頃及び1936年頃〜終戦直前まで、それぞれ第一次、満州事変
  〜第2次世界大戦の軍需産業においての銅の高需要で屋嘉比、久場で数業者が大規模な
  採掘を行なっていた。沖縄戦直前には屋嘉比島に分教場や診療所などが出来るほどの活気を
  呈し、両島合わせて人口が2,000人を超えたこともあるといわれている。
  
    「米軍上陸と集団自決」
  1945年(昭和20年)の沖縄戦においての前段として慶良間の戦闘は悲惨を極めた。
  3月22日から3日間にわたり原形を失うほどの空襲、艦砲射撃を受け、26日8時を
  まわった頃米軍は水陸両用戦車を先頭に、阿嘉、慶留間、外地島に上陸を開始し、9時頃
  座間味島にも上陸。沖縄戦においての米軍初上陸の地となった。
  戦前の徹底した「皇民化教育」のもとで玉砕思想を植え付けられた村民は天皇の臣民としての
  意思を貫くため、肌が白や黒、背が天までとどくほど、目のヒージャー(山羊)の
  アメリカーに殺される前に愛する肉親を自らの手でと、方々で殺し合いが始まり
  カミソリで手首を切る者、服毒する者、手榴弾をたたく者、首吊りをする者と地獄絵
  と化したといわれている。

  ● 以上、「座間味村史」(1989年)上巻 序説 「座間味村の概観」より抜粋



    「ケラマジカ」

  1972年5月15日沖縄の日本復帰をもって国指定天然記念物に指定されたケラマジカは
  慶良間列島の屋嘉比島、阿嘉島、慶留間島のみに生息する野生の鹿である。
  古文書によると、1628〜40年頃に尚氏の金武王子朝貞が薩摩から持ち帰った鹿を
  久場島に放し飼いをしたと記してある。その後1756年に来琉した冊封使は
  座間味、慶留間、久場に生息と「琉球国志略」で報告している。久場島に放し飼いした鹿を
  食料として猟獲し渡嘉敷、座間味、阿嘉、慶留間、屋嘉比、で放したと推測される。
  古文書には阿嘉で生息する記載は無かったようだが、島間を泳いで渡る鹿の目撃談が
  数多くあることから、餌や繁殖を求め多数が渡島した可能性は充分ある。
  
  大正後期〜昭和初期には慶良間列島のほとんどの島に生息していたが、農作物を
  食い荒らす害獣として駆除していたらしい。高校などでは修学旅行に「慶良間鹿狩」が
  度々催行され、沖縄戦では艦砲射撃等の攻撃で多数死滅、終戦後アメリカ兵が
  屋嘉比島等でディアハンターと化し射撃を楽しんだと言われている。
  その間に長期的な旱魃などもあり生息数が減少、国天然記念物の指定時には
  屋嘉比島と慶留間島合わせ推定で45頭前後の生息数であった。
  天然記念物指定前の1964年には国際自然保護連合が「カテゴリー1」に指定、
  (まぁ現在の「レッド・データブック」のようなもので重要保護指定されたということ)
  慶留間島、屋嘉比島を保護区としている。

  阿嘉島には100頭前後の生息が琉球大の調査により明らかになり慶良間では最も
  ケラマジカが生息する島となっている。早く阿嘉島も保護区にしてもらいたいものであるが
  住民の意見や作物被害等の兼ね合いもあり保護区指定は中々難しいらしい。
  夏ニシハマへ行く途中のススキ群落湿地帯で毎夜繰り広げられる「ケラマジカツアー」、
  及び秋の繁殖期に聞こえる物悲しい鳴き声は阿嘉島の風物詩といえる。

 * 座間味村に生息しているらしい(見たこと無いのもあるから)生物を少々。
   ● 天然記念物 
  カラスバト、アカヒゲ、マダラトカゲモドキ、の3つがそうらしいがカラスバト以外は
  見たことが無い。マダラトカゲモドキに至っては鼠駆除の為に放したイタチによって
  アカマタと共に絶滅している可能性がある。ハブとマングース同様に
  鼠駆除後のイタチの処遇を考えず安易に放した結果である。当時、琉球政府は
  反対したらしく自費で導入したらしい。当時の事を思えば致し方無いか・・・。
  
  ● その他良く見かける生物
  メジロ、アカハラヤモリ、リュウキュウハシブトガラス、ナナフシ、チョウチョ各種
  リュウキュウイシガメ、○○ホタル、テナガエビ、メダカのようなやつ、などがいるが
  まだ山に入って調べてないので分らんが相当数の生物が生息していると思う。
  爬虫類、鳥類、昆虫類の専門家に一度は調べてもらいたいものである。
 

阿嘉島とはどんな島なのかを書き記そうと思っていたが案外面白味に欠け、ダイバーが興味をソソル
ような事柄はあまりなかった。「慶良間を知る上で最低限度の知識」というところか。興味が沸いて
詳しく知りたい人は「座間味村史 上・中・下巻」1989発刊 (役場問い合わせ)を熟読してください。